絵手紙とは何でしょうか?
日本絵手紙協会は「絵手紙」を商標として登録出願したが、識別能力を有しないとして却下されています。
それは、どこまでが絵手紙で、どれが絵手紙でないのかの境界線がないことを意味しています。
それは、あくまでも法律的な面です。実際には確かにあると思う。
自分の絵手紙について、バランスの取れた見方をしましょう。
自分のことをある程度、考えるのは必要です。
しかし、自分中心の考え方をすると、周りの人に嫌われたりします。
絵手紙の場合も同じです。
他の人から注目されること、上手と思われたい心、食事や風景を楽しんでいる写真をアップして余裕を見せたい心の人はいませんか?
人から注目されたり、うらやましいと思われたい人は「健全なバランス」に欠けています。
それが中心にあると、いつまで経ってもゴールなき競争で「喜びや満足」に至りません。
一方、自分の弱さや苦手なことがあっても、それを認め、他の人の良い点を認める(心の中でも)謙遜な人がいます。
そういう人は、絵手紙では初心者でも「人間的魅力では、バランスの取れた人」ということができます。
そういう人は、少しの学びでも素直に受け入れ、自分がほんの少し進歩できただけでも喜ぶことができます。
他の人が、もっと写実的に上手に書いても「人は人」です。
他の人の上辺の評価よりも、「自分の心の自尊心」を大切にします。
「上手、うまい、いいね」を期待する人は半人前。
誰かの役にたてればいい、誰かを喜ばせたい、そう思って絵手紙を書こうとする人と、「他の人より上手と思われたい人」の作品があるとしましょう。
私には、それを見分ける力はありません。
外見だけで人を判断すると、その人の心の奥にある良いものを見抜けないことがあります。
一方、外見で判断して、見かけに騙されてしまったりすることもあります。
自分の心を強め、人の批判に耐えられる防具ともいえるものを持つのは良いこと。
絵手紙と言う趣味の分野よりも、「人間らしく生きる」分野の方が、はるかに大切ではないでしょうか?
その点、長く絵手紙を書き続けている人、その熱意は本物の証しです。
絵手紙は心、ハート、なのだと何度でも思うなら、批判を乗り越えられる。
私たちは、これは「絵手紙らしい」として評価してしまう。なぜですか?
いつの間にか、明確な理由がないまま、他の人の作品を「らしくない」と評価してしまうことがありませんか?
そもそも、絵手紙らしいとは、どういうことでしょうか?
それを知る1つの方法は、「絵手紙の道具」にあります。
絵手紙セットの場合は、硯と墨、線引き筆、彩色筆、画仙ハガキが含まれています。
線引き筆は書道の筆より穂先が長い、長い線を書くことを目的にしている。
それと異なるのは「筆ペン」です。
筆ペンで書くと「絵手紙らしくなくなるのですか?」と言われると答えに窮します。
ユーチューブなどの動画では、「らしくない」絵手紙が多くあります。
それで、人気もあります。
自分の書いたものを第三者に「自慢したくて、見てもらいたくて仕方ありません」
絵手紙の美しさの5K「健全、謙遜、敬意、堅実、健康」に反しています。
この5kは私の造語、後日記事に書く予定。
「にじみ、かすれ、線の変化」があってこそ、絵手紙らしい。
早く書いた滑らかな線と、ゆっくりと画仙紙に滲ませた線があります。後者が絵手紙らしいとされています。
ハガキについても、画仙ハガキという、にじみを活かしたハガキが使われています。
これは、「にじみ、かすれ、線の変化」のないものは、絵手紙らしくないという意味かもしれません。
下手、絵手紙らしくない、という非難があっても乗り越える。
絵手紙を書く人だけと交流していると、絵手紙を書く人からの評価が気になる。
そういうのは、正しい評価は得られない。
つい、絵そのものに注意がいってしまう。
相手に喜ばれる絵手紙は、絵手紙を書かない人から、素直に受けた方がいい。
簡略したものも、度が過ぎると、一般の人は「何が書かれているか分からない」。
心の底から言いたいことを、考えて、言葉を考え、それから絵を書こう。
年月が経過しても、錆びない絵手紙を書こう。
「絵手紙は、絵だけではない、言葉だけでもない。ハートであり生き方だ」と思う。
私たちの生き方は、「上手い、下手を気にした生き方」だろうか?
決して、そういうものではない。
筆を持てる、目が見える、色が分かる、言葉も書ける。
若いときから多少衰えても、生きている人間には人並みの熱意がある。
人を愛する熱意、花を見て喜ぶ心、誰かに喜びを伝えたい、感謝を伝えたい気持ちが燃えている。
今日も、生きている。生きていればこそ、絵手紙に出合えている。

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